【Challenger’s Interview】360度の主観映像でサッカー指導を進化させる——チームEMPATHLETEの挑戦

360度カメラで「選手目線でのトレーニング」を実現させる——そんな革新的な鍛錬方法の提供に挑むのは、リコーの社内スタートアップ「EMPATHLETE(エンパスリート)」だ。2025年4月にはJリーグとの「未来育成パートナー」契約も締結。このソリューションはスポーツの現場にどんな変化をもたらすのか。株式会社リコー、TRIBUS推進室のEMPATHLETEチーム、江口陽介、奥田龍生、斎藤昌宏、米田優に話を聞いた。
江口 陽介
株式会社リコー 未来デザインセンターTRIBUS推進室 EMPATHLETEチームリーダー
奥田 龍生
株式会社リコー 未来デザインセンターTRIBUS推進室 EMPATHLETEチーム
齋藤 昌宏
株式会社リコー 未来デザインセンターTRIBUS推進室 EMPATHLETEチーム
米田 優
株式会社リコー 未来デザインセンターTRIBUS推進室 EMPATHLETEチーム
人間の能力を拡張するカメラの可能性
――まず、EMPATHLETEの事業内容について教えてください。
江口 EMPATHLETEは、アスリートの目線から見える光景と周囲の状況をそのまま映像に残し、振り返りとトレーニングに活かせるソリューションです。選手が首に装着する小型の全天球360度カメラでプレー中の映像を録画し、その映像を用いて自分のプレーを振り返ることができます。
映像の振り返り方法には2つあって、ひとつはパソコン画面で俯瞰視点と選手視点の映像を同時に並べて見る方法、もうひとつはVRゴーグルを使って、まるでその場にいるかのように選手の視点を再現する方法です。
株式会社リコー 江口 陽介
通常のビデオ映像だと客観的な視点だけになるので、「ここでこう動けたはず」と思ってしまいがちです。一方で、VRゴーグルを通して自分の視点で映像を振り返ると、当時の臨場感やプレッシャーをありのまま体感できる。これによって、理想通りに動けなかった本当の理由が見えてくるので、課題が明確になります。これは選手本人だけでなく、指導者にとっても新しいアプローチになると考えました。
これまでにもバーチャルな映像とVRゴーグルを活用したトレーニング方法はありましたが、360度カメラによるリアルな主観映像を活用したのは、EMPATHLETEが初めてです。
――このプロジェクトを始めたきっかけや、立ち上げ当初の思いを教えてください。
奥田 私も江口さんと一緒に初期の構想段階から携わってきたのですが、私自身は元々カメラのデザイナーで、新しいカメラの形を提案したいという思いがありました。
株式会社リコー 奥田 龍生
リコーは2013年に世界初の360度撮影が可能な全天球カメラ「RICOH THETA(シータ)」を開発しています。THETA自体も進化を続けていますが、誰か特定の人の360度の映像を撮れたら、その人に没入できて面白いのではないかと考えました。そこから「全天球カメラTHETAをウェアラブルにしたらどうか?」と発想し、江口さんと意気投合しました。ただ、2019年に最初の社内コンテストに応募したときは「何にでも使えます!」とアピールしすぎて、用途が漠然としていると指摘され、落選しました(笑)。
江口 THETAは「人間の能力を拡張する」カメラだと思っていて、元々可能性を感じていました。落選を機に「このカメラを本当に必要としてくれるのは誰だろう」と考え直したんです。そこで思いついたのが「周囲をキョロキョロとよく見渡す人」でした。この地球上で一番首を振って周囲を見ているのは誰だろう…と考えると、自分も大好きなサッカー選手ではないかと思いました。
私自身アマチュアでサッカーをしていますが、「周りを見ろ」と言われても、見るのも難しいし、見たところで何を判断すればいいのか悩む経験をしてきました。同じように見ること(認知)や状況判断に悩んでいる選手や指導者はきっといるはず。そう確信して、2022年に再チャレンジする際はサッカーでの活用に狙いを絞って提案しました。
現場主義の開発で「使われるもの」をつくる
――結果、無事にTRIBUS 2022に採択されたということですね。プログラムを通して、どう進化していったのでしょうか。
江口 採択当初は、プロの試合をVRで観戦するようなエンタメ活用もありうるのではないかと考えていました。ただ360度映像の特性上、画質がやや粗く、どうしても揺れが出てしまうので長時間の視聴には向かない。早い段階でそれが分かったので、当初から可能性を感じていたコーチング支援に方向を定めました。2023年2月の統合ピッチでは「撮影した映像をそのまま指導に活かせる」という、現在に近いコンセプトで発表しました。
採択される前後で、実際にユースや大学のチームを視察する機会にも恵まれました。やはり「周りを見て考える」という動作の指導は再現も説明も難しく、どうしても経験に頼らざるを得ないという印象を受けました。ボールのコントロールや技術的なことは教えられても、状況を見て判断する力は場数を踏んで伸ばしていくしかないという実情があると思います。やはりEMPATHLETEなら新たな指導のあり方をつくれるのではないかと可能性を感じました。
2023年頃はパソコンの画面に映すビューアーのみの開発をしていました。実証実験に協力していただいたコーチから「映像は見るだけで終わってしまう」という指摘を受けて、VRゴーグルで追体験できる仕組みを取り入れることにしました。つまり、映像を見ながら振り返りや指導を受けるだけでなく、実際の状況を再現してトレーニングもできるわけです。 斎藤さんが2024年末に加わり、開発が加速しました。
株式会社リコー 齋藤 昌宏
齋藤 映像ビューアーも選手とコーチが議論しやすいように改良を重ねています。重要なシーンに音声入力でタグ付けができる機能や、主観映像でボールの位置を示す機能など、撮りっぱなしにせず指導に活用してもらえる工夫をしています。シュート数やパスの成功率、ボールの保持率などのデータを取得する機能も開発中です。
江口 こうした実証実験と改良を繰り返しているのは、やはり現場で本当に使ってもらえるプロダクトにしたいからです。一番励みになったのは、J2クラブの一つであるブラウブリッツ秋田に機材を持って行ったときに「これはすごい!」と太鼓判を押していただいたことです。そのご厚意で長期的な実証にも協力していただき、秋田へは延べ10回以上通いました。「絶対に良いものにしよう」という思いが一層強まりましたね。
——2025年4月にはJリーグとの「未来育成パートナー」契約を締結されましたね。社内外からの反応、影響を教えてください。
江口 ご縁があり、ちょうどJリーグが未来育成パートナー制度を新設するタイミングで第1号パートナーに迎えていただけました。社内は「すごい!ついにJリーグと!」と沸きましたが、それですぐに「ぜひ使いたい」と問い合わせが殺到するほど世の中は甘くありません。むしろここからが勝負ですね。
Jリーグとは定期的にミーティングをしていて、「どのクラブと組むと良い」「こういう使い方もできるのでは」といったアドバイスをいただいています。Jリーグのスタッフの方にも実際にVR映像を体験してもらい、「これは個人育成計画(IDP)にぴったりのソリューションだ」とお墨付きをいただきました。Jリーグとしても、この技術で一人でも多く有望な選手が育ってほしいという思いがあるようで、我々もその期待に応えていきたいです。
主観映像が「共感を力に変える」
――今後がますます楽しみです。現状の課題について教えてください。
米田 実は私たち、今まさに「世の中に広める」フェーズに全員で取り組んでいるところです。大企業の通常の製品開発だと、完成後は営業部門にバトンタッチしますよね。でもEMPATHLETEチームは少人数ですし、開発メンバーが自らマーケティングや営業、広報まで全部やっています。それぞれ専門領域はありますが、今は役割の垣根なく「どうやってこの価値を届けるか」に全員でコミットしている状況です。
株式会社リコー 米田 優
齋藤 例えばこの半年はチームで「○件のクラブに導入を決めてもらおう」と営業計画を立てて動いています。営業経験のないメンバーですが、自分たちが開発したプロダクトを自分たちで販売できるというのはなかなか得られない、貴重な経験です。
もちろん並行してプロダクトもまだまだ改良が必要です。首に付けるカメラはもっと小さく軽くしてほしい、安全性を高めてほしいというような要望もいただいています。体に装着するのでケガなどのリスクにも気を遣いますし、多くのチームに導入してもらうために価格もできるだけ抑えたい。そういったハード面のブラッシュアップにも引き続き取り組む必要を感じています。
――サッカー以外への展開も考えているのでしょうか?
奥田 はい。JリーグでIDP(個人育成計画)の話が出たように、まずはサッカーで成果を出しつつ、将来的には他の競技にも活用の場を広げていきたいです。実際、2025年6月に東京ビッグサイトでスポーツ関連の展示会に出展したときには、サッカー以外の競技の関係者から「自分の分野でもぜひ使ってみたい」と声をかけていただきました。
齋藤 サッカーに近いフィールド競技ならラクロスやバスケットボールのようなチームスポーツにも応用できますし、スケートボードや自転車競技といった個人種目、エクストリームスポーツにもニーズがありそうです。またスポーツ以外でも、高所や災害現場での危険作業の訓練に使えないかという相談もいただいていて、展開については手応えや期待を感じています。
江口 展示会後にはインラインスケートの日本チャンピオンの方に実際にカメラを装着して滑ってもらう機会も得られました。
奥田 乗馬の障害飛越競技の選手にも「自分の視点映像を撮ってみたい」と言っていただいて、この後撮影する予定です。馬術なんて普段縁がない世界ですが、例えば騎手の目線映像と客観映像を組み合わせれば「馬上で足や手綱をどう操作しているのか」を新しい角度で学べますよね。競技者の指導教材や、ファンに競技の魅力を伝えるPRツールとしても活用できるかもしれない。そんな風に、主観的な映像だからこそ届けられる価値がまだまだありそうだと感じています。
江口 EMPATHLETEのオリジナリティはこの「主観映像」にあります。他人が撮影した映像を外側から見るだけでなく、「同じ視点ではどう見えるか」を実感できること。プロジェクト名のEMPATHLETEも、EmpowerとEmpathyにAthleteを組み合わせた造語で、「共感を力に変える」という意味を込めています。第三者視点だけでは得られなかった共感や気づきを、一人称視点で引き出し、選手の成長につなげる――そこを私たちの揺るがないコンセプトとして、成長させていきたいですね。
――では最後に、TRIBUSで挑戦を考えている社員へのメッセージをお願いします。
江口 何か「やりたいこと」がある人は、ぜひチャレンジしてみるといいと思います。ただ、正直に言うと大変なことばかりなので、簡単には勧められないです(笑)。でも強い想いがある人ならきっと自分で動き出すはずだし、そういう人たちのことは全力で応援したいですね。私自身、大変なことも多いですがサッカーという大好きな領域に関われている分、辛さより楽しさが勝っています。
齋藤 大企業の大規模開発だとお客様の声を直接聞く機会は少ないですが、少人数チームの事業では良い意見も厳しい意見も直に届きます。それを聞いて自分で改善できるのは、エンジニア冥利に尽きます。それにTRIBUS事務局の方々が困ったときに色々な人とつないでくれるので、小さなチームでも孤独を感じることはありません。
奥田 そうですね。社内とはいえ新規事業ですから、不安もゼロではありません。でも経理など分からないことはすぐサポートを得られますし、会社の看板を活用できる強みもあります。
米田 とはいえ私たちはあくまで開発に携わってきた人間で、営業のプロではないので、日々手探りですね。価格設定ひとつ取っても初めての経験ですし、お客様の本音を引き出す難しさも痛感しています。でもだからこそ面白い、とも思っています。各メンバーが本業では経験できない苦労に向き合いながらも、それを「いい経験だ」と前向きに楽しんでいる。それがEMPATHLETEチームの強さかなと思います。
PHOTOGRAPHS BY YUKA IKENOYA (YUKAI) TEXT BY MARIE SUZUKI